教会の方々、教職の先生方、親しいお交わりを持たせていただいている方々、
ほんとうにたくさんの方々が、ご心配して下さり、
手術の当初から絶えず熱い祈りを捧げてくださっているのを伺っております。
地元の教会のみならず、まさに全国各地で。様々な会合でも。
また、たくさんのお気遣いのお言葉を頂戴して、ほんとうに感謝しております。
皆様のお祈りに支えられていることを実感して、
神様のお導きと備えに従って生活できることを毎日心強く感じて過ごしております。
手術当日深夜、鶴見教会の遠藤京子牧師(当時)が、病院に来てくださり、
翌早朝、手術が終わるまで居て下さいました。祈ってくださっていました。
執刀して下さった先生が、無事に終了したことと今後の注意事項を説明して下さって、
母をお預けしてその日は家に帰ることになりました。
その時、遠藤牧師が、「まず、神様に感謝しましょう」と言って下さいました。
突然の救急搬送と脳梗塞の手術、命にも関わるかもしれない脳の手術、
脳梗塞もよく分からないし、状況を受け入れきれてはいないままに過ごした夜、
手術が成功することを、たぶん一生で一番に真剣に祈りましたが、
無事に長時間の手術が成功すると、
「よかった。」「無事に終わった。」
「でも、これからどうなるのだろう。」「もうこんな時間なんだ。」「まず帰ろう。」
それしか意識がまわりませんでした。
願いだけを祈り、かなえられたらそのまんまその時を終わらそうとしていました。
あらためて一緒に祈り、心から感謝することができました。
信仰が未熟なものには、このことでその後の母の闘病生活の秩序が示されました。
患部が癒され抜糸されて感謝し、母との会話が成立するようになり感謝して、
回復の段階云々で喜び感謝する(本来当たり前のこと)習慣が基本となりました。
麻痺していた左足のつま先がピクリと動いたこと、ひざが曲がったこと、
麻痺していた左手を右手が掻いたこと、
右手が持っていたティッシュを左手が預かったことなどなど。。
感謝の祈りを捧げると、喜びを再確認して感激が倍増してすごく元気になります。
11月の母の誕生日の頃から、毎日、母と共に祈るようになりました。
「導きの中で守られた生活の1日の終わりに共に祈れることを感謝します」
「たくさんの祈りとお心遣いに支えられていることを感謝します」
「御心にかなう働きができるようになるように導いてください」
「一切を御手にお委ねします」母は祈ります。
まず感謝から、一緒に祈ることができる毎日を感謝しています。