はっきりとした意識でしゃべれるようになったある日、
母に、おもいきって聞いてみました。
「倒れてから今までで、何が一番に辛い?」
母の即答した返事は意外なものでした。
「あたし、特に辛いと思ってないの。」
実は今のところ、母は、
セリフに手加減したり、相手にお上手を言ったりはしていません。
気の利いたセリフ言ったり小狡いコトはできないアタマなのです。
大雑把な言い方で核心をズバッと言います。
だから、「安心させようと気を使ってるのかな?」とか勘ぐったり
腹の探り合いや、こう言ったらどう思うだろうといった深読みは不要なのです。
「でもね、…」
「神様がいてくださることを感じられないほど意識が遠くなった日は、
今まで生きて来て一番怖いと思った。」
「以前の忙しさや雑念の邪魔がなく神様と面と向かっていられる時だというのに」
そういえば、よくこのように祈るのです。
「私の魂をお救いください。あなたの臨在を確かに感じさせてください」と。
救いを経験したクリスチャンが改めて救いを乞うってどういうこと?
しかも牧師が?何かここで?罪を犯した?
この魂を救うというのは
神様のご臨在を堅く感じて安堵したいのだと
魂を正常に整えていただきたいのだと、救いを求めているのだと知らされました。
「これと言って神様にお願いのお祈りは特にしたくないの」
「むしろ自分のためのお祈りはできればしたくない」
「魂を救っていただいて、しっかり神様と繋がっている安心があれば何もいらない」
「魂を救っていただければあとは一切をお委ねすればいいの」
得心しました。
普段どれだけお願いの、おねだりのお祈りをしているだろうか。
そんな枝葉のことではなくて
ご臨在を実感して、委ねて安心すれば全て解決されているということ。
闘病の母に、母の信仰におしえられました。